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Red_Crow’s diary

もの作り集団Red_Crowの生存と活動日記

食べるために?

 ある日、筆者(こと、「空(くう)」)は思い出した。

「お前たちは、食べるために生きているのか? 生きるために食べているのか?」

と言う、たぶん今頃ご逝去なさっているであろう、ユーモラスな小学校教頭の言葉を。

 ある男子学生が、かっこいいほうの答えを返した。

「生きるために食べている」

 それを、教頭は否定した。

「いや、お前達は食べるために生きている。今日の給食が楽しみだろう?」

 それは確かに的を射た言葉だ。

 筆者の世代が小学校の頃には、既にバブルは崩壊し、「景気が悪くなった」「大学生の就職率が悪くなった」と、とにかく「悪くなった、悪くなった」と言いたがる大人やニュースが多かった。

 それは、バブル景気に比べれば「悪くなった」かも知れないが、一時的な好景気を過ぎて、「普通の状態」になっただけじゃないのか? と、幼心ながらに思っていたが、

景気が悪くなったから給食撤廃します、と言うほど悪くもなってなかったのは、筆者も覚えている。

 

 食べるために生きる、つまり、「今日のお昼は何を食べよう」「今日の夕飯はハンバーグだ」「明日の朝はオムレツにしようかな」などなど、食事を中心として、日々を過ごすという事だろう。

 

「日々」、それは積み重なれば、人生となる。食べるために人生を費やす…充実しているような、不毛なような…。

だが、ゲームの世界とは違って、生命体と言うものは常にエネルギーを消費(代謝)しているので、最低限のエネルギーを摂らなければ、行動不能に陥るのだ。

 故に、一通りのものは食べなければならない。そうなると、それは「生きるために食べている」ことになるのだろうか。

なるんだろうな、やっぱり。

でも、人間は欲が深いもので、ある程度の余裕を持つと、どうせ食べるなら美味しいものが食べたいと言う「追加欲求(←造語)」が芽生えるのだ。

 

 まだ悟りを得るまでの修行期間だったとき、仏教の開祖である仏陀こと、シッダールタ氏は「食べ物を食べない苦行」を行なっていたと言う。

もちろん、ガリガリに痩せて、そのときの眼力で虎を追い返したという逸話まであるらしい。

ただ単に肉がついて無くておいしくなさそうだったから、虎も食べる気をなくしたのかも…と言うのは虎だけが知る。

 その苦行が限界近くまで来たとき、スジャータと言う女性がくれた乳粥を食べて、シッダールタ氏も大感激したと言う。

 この件については良く知らないのだが、現代語で言うと、「食べるって大事だな」と、シッダールタ氏も思わなかったわけはあるまい。

 その、「適度は大切だ」と言う思いから、「中道」と言う、苦にも楽にもよりすぎない、と言う考え方に…発展したのではなかろうか。

 直接のきっかけが何かは分からないが、「乳粥事件」も、シッダールタ氏に「中道」を思い起こさせる一因になったことは確かだろう。

 シッダールタ氏は、元が王族なので、出発点が「贅の極み」だったから、追加欲求も生まれないだろうし。

 

 そんなことを思っていたら、腹が減ってきた。

結局は、食べなければ生きてゆけないのだ。

それを、楽しみとするのも、悪いことではない。体を壊すほどにならなければ。

もちろん逆もありうる。飽食と言われる半面、飢餓で死ぬ人もいるご時世だ。

 食べるために生きるのも、生きるために食べるのも、ほどほどに。

 

さて、食べるために出かけてくるか。